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練馬の今昔史

 豊島宗家と練馬の関係については「新編武蔵風土記」に元弘年間(1331~1334)に9代豊島泰景が石神井城主であると記されており、鎌倉時代の末までに滝野川城。板橋城。練馬城。石神井城。志村城。赤塚城を築いたと記されている。

 その後140余年を経た文明9年(1477)4月大田道潅が弟の豊島泰明の拠る平塚城を攻撃したので兄の19代豊島泰経は弟を助けようと、石神井。練馬両城の兵を率いて出撃したが江古田ヶ原。沼袋の遭遇戦で泰明以下150名も討死にし、泰経は残兵をまとめて石神井城にたてこもったが4月28日に落城、平安末期から数百年余り練馬の地を支配した名族豊島家宗家は滅亡した。江戸時代にはいり江戸幕府のお狩場等にも利用されたが、五代将軍綱吉が将軍になる前に、現在の錦町二丁目付近にあった「御殿」と言われた場所で療養していたと言い伝えられています。

 練馬大根は五代将軍綱吉が大根の種を百姓又六に与え、それを改良して日本一の大根にしたと伝えられていますが綱吉の病気(脚気)療養に練馬大根がよく効いたので栽培が盛んになったという一説も有ります。
 
 子のなかった綱吉没後、6代将軍には甲州から甥の家宣をむかえた。
 家宣は、綱吉の生母桂昌院や、叔父綱吉の悪政を改めようとしたが、在職4年49才で病没した、家宣の幼い子鍋松は家継と名を改め、正徳3年(1713)5才で7代将軍となったが8才で没している。
 
 正徳4年(1714)当時、風紀の乱れていた江戸城を糾弾する事件が発生しましたが、これが有名な絵島。生島事件です。
 
 生母の側室月光院派と正室の天英院派との間に、大奥の勢力争いは激化し、月光院に仕えた絵島の宿下がりの仮親元となった白井平右衛門勝昌は、大田道権に滅ぼされた宗家豊島泰経(練馬城。石神丼城主)から6代目の後喬であり、白井は母方の姓を名乗っていた。
 
 その後絵島は、月光院の請願によって信州高遠の内藤駿河守へお預けとなり配流された。
「浮世には又帰らめや武蔵野の月の光の影も恥かし」
 と詠んで江戸を発ったが流刑の地高遠で、27年間厳しい監視下での生活を過ごし、寛保元年(1741)61才で死去、仮親元となった肉親ではない白井平右衛門勝昌は死罪となった。

 当時の武州豊島郡下練馬村は、下記の道標でも明らかのように宿場として栄えていた。
 
道標.jpg 道標に刻名の内田久右衛門家は、練馬村の名主の家柄で脇本陣の旧家で広大な屋敷には式台。奥書院等があったが昭和20年の東京大空襲(こより焼失してしまった。
 大山街道は、現在の板橋区若木町中台よりの道で旧川越街道に交わった処を「ヒヤカイ」ここから200メートルの道標迄が(下練馬村字下宿)宿場として栄えていた。
 「ヒヤカイ」の南側を「シモジク」道標の北側が「ナカジク」大山街道沿いを「ヨコチョ」と呼んでいたので、その場所に住んで居た人を称号で呼ぶ習わしが現在も実在しています。
 
  この道標は、川越街道と大山街道との分|咬点に、天下太平。家内安全を祈って、宝暦3年(1753)8月、内田久右衛門。並木庄左衛門によって建てられた もので、角柱の上の座像は、不動明王です。江戸から大山へ行く道は、いく筋もありましたが、その一つがこの道で、白衣の道者たちが、ここを通っていきまし た。
 
 大山から富士山へ回る人も多かったので、富士街道の呼び方がされています。そばにあるのは、江戸御府内の人々に参拝されていた東高野山長命寺(高野台三丁目)の案内道標です。

 慶応4年9月に明治と改元したが練馬区域は、旧幕府時代に幕府代官による支配地が大半を占めていたため、元幕府代官だった松村忠四郎長為が武蔵県知事として、旧支配地を支配したが翌2年(1869)1月には、練馬区域の大部分が小菅県、同年2月品川県を経て明治4年東京府に編入された。

 それ迄は、下練馬村であったが昭和7年10月東京市35区政となり板橋区に編入され板橋区練馬北町となった。その後昭和18年7月東京市が東京都に変更され、昭和22年戦災復興の促進を計る為同年8月練馬区が独立し、練馬区北町となり今日に至っています。