高砂町の沿革
旧 東京府南葛飾郡奥戸村大字曲金
現 東京都葛飾区高砂(2丁目 3丁目 4丁目 5丁目)
◎沿 革
明治元年に江戸城を東京城と改め、大首都となり、皇居を定めた。
当時高砂は小菅県管下の所轄であった。明治4年に廃藩置県が実施さ
れて、東京府の所轄となった。
大正元年に市川、押上間に京成電車が開通し高砂駅が設置された。
大正15年1月に大字地金区域内を以て、高砂町会が設立し、昭和
5年には奥戸村は町制を布き奥戸町と改称し、当町は奥戸町大字曲
金と称した。
昭和7年10月1日東京府は市郡を合併し、大東京市を構成した。
この時初めて、奥戸町外六ケ町村(旧本田町、南綾瀬町、亀青村、
水元村、新宿町、金町)を以て葛飾区を編成、曲金は高砂町と改称
した。
昭和18年東京都政が実施され、従来の35区を23区に編成、今や世
界に誇る大東京都となった。
次に高砂の発展状況を年を追って記してみよう。
- 高砂は大正12年の関東大震災をさかいとして発展をみた。その以前に80戸足らずの部落であったが、震災後一躍400戸の戸数と、1800の人口となった。
- 大正4年電灯がついたが、それまではランプ生活であった。然 し実際には電気は使用採算上引込の帝望者が少なく誘致の運動をした人は力ぬけしたとのこと。
- 大正14年に高砂に初めて電話が開設された。(関根孝一、関根 徳二、関根庄太郎)三軒一架設料当時の金で1,000円以上だったとのこと。
- 昭和2年奥戸尋常高等小学校の分教場として、高砂分教場が開 校した。(通学区域:高砂、鎌倉、細田)
- 昭和4年高砂郵便局が開設され初代局長に田辺多一氏就任。
- 昭和5年奥戸村は町制を実施して奥戸町と改称した。
- 昭和7年高砂橋が完成し、府道(現在バス通り)が作られた。そ れまでは渡舟で料金をとっていた。尚学校も高砂分教場から独立して高砂尋常小学校となった。
- 昭和15年に高砂に初めて交凄が設置された。
- 昭和18年東京都制が実施され、町会の整備が断行された。 高砂町会は、京成軌道を以って南北に分割され、高砂南は諏訪 町(現在の高砂一丁目)を併せ高砂諏訪町会を組繊し、区の指示に より町会事務所を設置した。東京に初めて空襲があった。また戦 時体制の強化に伴い神社の統合が行われ、町内各 所の稲荷神社を 鎮守、天祖神社境内に合祀した。また八雲神社も天祖神社の境内 に社を建て合祀した。
- 昭和22年、町会制度がポツダム政令により廃止され、諏訪町は 独立し、高砂南北は各独自の組織を以て町内の運営に当った。昭 和二十七年講和条約の発効により自治団体として高砂南町会が誕 生した。関東一都六県に大水害あり、当町の被害甚大なり。
- 昭和29年末成電鉄高砂駅拡張、地元の帝望により現在の南口が 開設された。
- 昭和32年天祖神社造営奉賛会結成さる。神谷敬二氏より記念と して、成年神輿一体の寄附があった。
- 昭和35年都営地下鉄の乗入れられるようになり、上野、千葉、 成田、浅草、金町方面を結ぶ交通の要点として、いよいよその重 大さをましてきた。
- 昭和36年中川放水路竣工通水式挙行、また高砂呑口右岸(石塚 鉄蔵氏裏)に小公園造成、記念碑が建てらる。天祖神社社殿落慶、 古式により遷宮式典が盛大に挙行された。
- 昭和38年、区役所一戸ケ崎(昭和 年廃止)京成小岩一亀有間の バスが運行を開始する。
- 昭和39年都営団地完成、新に1,800世帯の高珍住民を迎え面目 を一新した。
- 昭和40年高砂中学校竣工開校す。同年8月住民表示実施、各戸 の門表に何丁目何番何号と表示され、明るい住みよい街として現 在に至る。
- 昭和50年4月高砂保健相談所新築竣工なる。地域の保健衛生に 関して大いに貞献利用している。
- 昭和55年2月東用水堀地下10米に下水道幹線が完成さる。
- 昭和56年高砂地区に一般家庭の下水工事始まる。
- 昭和59年西用水が埋立てられ、歩車道が区別され、バス通りと して立派に完成する。
- 昭和62年8月高砂地区センター及高砂出張所新築移転される。
- 平成元年東用水堀にせゝらぎ公園、道路工事が着手され一部完 成する。
- 平成2年9月京成高砂駅舎大改築される。
- 平成3年4月北総線高砂一鎌ヶ谷間開通する。京成と総合乗入 れする。
- 平成3年9月高砂天祖神社社務所を今上天皇大典記念を記念し て新築竣工する。
- 平成4年5月高砂南町会々館建設竣工する。
- 3500世帯を超える大町会に発展。